読書貯金はじめました。

読書貯金とは私の造語です。本を要約・評価しつつ記事にして、読み返して智慧になるような記事を書いていきたいと思います。

「善の研究/西田幾多郎」を青空文庫で読んでみました。

はじめまして。
KISOと申します。
本日は、西田幾多郎の「善の研究」という本についてご紹介いたします。

Amazonの著者紹介では短いので、コトバンクでの紹介を引用させていただきます。

 

西田幾多郎【にしだきたろう】日本の代表的哲学者。石川県出身。四高中退後,東大選科に入り,鎌倉の円覚寺などで参禅。1899年山口高校講師を経て四高教授となり,熱心に打座・参禅して,〈純粋経験〉〈直接経験〉および〈絶対矛盾的自己同一〉など,のちの彼の根本思想となるものについて思索を深めた。1909年学習院教授,1910年招かれて京大助教授となり,1911年《善の研究》を発表し,1913年京大教授となった。東洋的精神性の自覚を基礎に,西洋哲学を積極的に摂取し,東西思想の内面的統一を求めて,独特の〈西田哲学〉を樹立し,田辺元らと京都学派(西田学派)を形成した。1928年退官後も活発な著作活動を続け,大正・昭和時代の哲学思想に大きな影響を与えた。1940年文化勲章。著書《自覚に於ける直観と反省》《働くものから見るものへ》《哲学の根本問題》。全集18巻がある。

 
と、紹介されています。

 

日本における代表的な哲学者ですね。

 

一方で作家的な功績も多数見られるようです。


彼の書いたこの本はAmazon上ではこのような評価となっております。

2018/10/28現在 ★★★★☆(43レビュー) 。

それでは、早速本書に対する所感を述べていきたいと思います……と、言いたいところですが、

正直なところ「善の研究」に関しましては非常に理解することが難しい本であると同時に、内容がとても濃いために一度の記事で完全に話しきれるとは思っておりません。

 

 

機会があれば、解説本の紹介もしたいところです。

 

それでは、気を取り直して内容に触れていきましょう。

 

まず最初に、彼は本書の前半部分において、”純粋経験”というテーマで論証を推し進めております。

 

純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活溌なる状態である」

 

「意志の本質は未来に対する欲求の状態にあるのではなく、現実における現在の活動にあるのである」

 

純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者のいわゆる単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである」

 

と、述べています。

 

ふむ、ここの時点では何となく”純粋経験”とはどのようなことを指しているのか、かなり大雑把に分かる状態ですね。

 

重要な箇所としては、”かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである”という箇所ででしょうか。

 

しかし、これが何にどのように影響してくる概念なのかということがさっぱり掴めません。

 

では、もう少し先の文章を読み解いてみましょう。

 

次に、”思惟”というテーマで論じられています。

 

ちなみに、思惟とは辞書的な意味合いで説明しますと、

 

しゆい【思惟】 ( 名 ) スル ① 〘仏〙 思いはからうこと。考えること。分別すること。思考。しい。 ② 「しい(思惟)」に同じ。 「さらに出直ほして-して見て/浮雲 四迷」

 

と、コトバンクで説明されています。

 

しかし、西田幾多郎によると、

 

「思惟というのは心理学から見れば、表象間の関係を定めこれを統一する作用である。そのもっとも単一なる形は判断であって、即ち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである。しかし、我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、かえって或一つの全き表象を分析するのである」

 

と、述べています。

 

なるほど、”純粋経験”で述べられていた概念と共通する箇所が見えてきましたね。

 

”即ち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである”という文章からは、非常に似通った概念を感じられます。

 

しかし、まだまだ謎の部分が多いです。

 

一見すると、複数に渡って存在している要素の統一にこそ善性を見いだせると言ってるようにも感じられます。

 

もう少し、先のテーマに触れてみましょう。

 

次は”意志”というテーマで話が進められています。

 

「具体的精神現象は必ず両方面を具えている、知識と意志とは同一現象をその著しき方面に由りて区別したのにすぎぬのである、つまり知覚は一種の衝動的意志であり、意志は一種の想起である」

 

「知と意との区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一せる状態を失った場合に生ずるのである。思想というのも我々が客観的事実に対する一種の要求である、いわゆる真理とは事実に合うた実現し得べき思想ということであろう」

 

”いわゆる真理とは事実に合うた実現し得べき思想ということであろう”という箇所がポイントになるのでしょうけども、まだまだわかりづらいですね。

 

恐らく、知覚と意志の分別について述べつつ物事の道理を見抜くポイントについて述べられているように感じられます。

 

その上で、これから”善”とは何かということについて述べられていきます。

 

「善は如何なる者であるか、何故に善をなさねばならぬのかの問題を人性より説明せねばならぬようになってくる。かくのごとき倫理学他律的倫理学という。これには三種あって、一つは理性を本とする者で合理説または主知説といい、ひとつは苦楽の感情を本とする者であって、また一つは意志の活動を本とする者で活動説という」

 

「善とは一言にていえば人格の実現である。これを内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極みは自他相忘れ、主客相没するというところに到らねばならぬ」

 

ここでまた難しい言葉が出てきましたね。

 

他律的倫理学”だなんて普通の人は聞いたことがないような言葉なのではないでしょうか。

 

しかし、基本となる考え方は変わってはいません。

 

あくまでも統一された要素にこそ善の性質が存在しています。

 

ここでは善性の価値観について述べられており、まず3パターンの倫理性について述べた後に、先のパターンのような客観的善が存在してることを考慮した上で、自己の善と統一を測ることで独特的人格の形成にこそ”善”が宿っていると言っているように感じられます。

 

なるほど、何が”善”なのかようやく見えてきましたね。

 

著書の最後では、”神と世界”というテーマで”善”という概念に対する締めくくりをしてます。

 

「他の人格を認めるということは即ち自己の人格を認めることである、しかしてかく各々が相互に人格を認めたる関係は即ち愛であって、一方より見れば両人格の合一である。愛において二つの人格が互に尊重し相独立しながら、しかも合一して一人格を形成するのである。かく考えれば神は無限の愛なるが故に、凡ての人格を抱合するとともに凡ての人格の独立を認めるということができる」

 

何となくですが、本当になんとなく”善”というものの在り方が見えましたね。

 

まとめると、

 

善とは要素を統一することのできる価値観であり、主観客観の垣根を超えて善性を謳えることにこそ善が生まれ、人格が実現されうるということでしょう。

 

また、凡ての人格の独立を認めることが出来なければ、自己の人格の実現が成り立たないということでしょう。

 

そして、他律を認められることが善的な愛ということだと、言っているように私は捉えました。

 

まあ、正直難しい概念ですので、私のこの解釈が正しいのかと問われれば怪しいところではありますが、素直に言葉のまま受け取った解釈となります。

 

いずれ解説本でも読んでみるのが良いかもしれませんね。

 

それでは、本日はここまでとなります。

また、次回の記事でお会いしましょう。

善の研究 ─まんがで読破─

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善の研究 (岩波文庫)

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