読書貯金はじめました。

読書貯金とは私の造語です。本を要約・評価しつつ記事にして、読み返して智慧になるような記事を書いていきたいと思います。

「シーシュポスの神話/カミュ(訳:清水徹)」を青空文庫で読んでみました。

はじめまして。
KISOと申します。
本日は、カミュの「シーシュポスの神話」という本についてご紹介いたします。

Amazonの著者紹介によると、

 

カミュ
1913‐1960。アルジェリア生れ。フランス人入植者の父が幼時に戦死、不自由な子供時代を送る。高等中学の師の影響で文学に目覚める。アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第2次大戦時は反戦記事を書き活躍。またアマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。1942年『異邦人』が絶賛され、『ペスト』『カリギュラ』等で地位を固めるが、’51年『反抗的人間』を巡りサルトルと論争し、次第に孤立。以後、持病の肺病と闘いつつ、『転落』等を発表。’57年ノーベル文学賞受賞。交通事故で死亡 

清水/徹
1931年、東京生れ。東大仏文科卒。明治学院大学教授。『廃墟について』等の著書、カミュビュトール『時間割』(クローデル賞)等の訳書がある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 
と、紹介されています。

カミュと言いますと、「異邦人」や「ペスト」で有名という印象が個人的に強いですね。

 

世界史の資料集や倫理の資料集に載っているような人物ですので、そこで作品そのものよりも”ノーベル文学賞”作家ということでご存知の方も多いかもしれませんね。

 

ちなみに、私はこの「シーシュポスの神話」以外には、「異邦人」を読んだことがありますが、それはまたの機会にご紹介したいと思います。

 

そして、Amazon上ではこのような評価となっております。

2018/10/20現在 ★★★★☆(34レビュー) 。


それでは、早速本書に対する所感を述べていきたいと思います。

この本の内容としましては、”不条理”ということに対してひたすら論じていくという内容となっていますが、哲学書と言って良いものやら、それともエッセイと言っても良いものやらその辺の判別が非常に難しい気がします。

 

と言いますのも、取り上げているテーマとしましては哲学的であるものの、主張を裏付ける文献が文学に基づいているものが多いということが挙げられます。

 

であれば、思想という意味では理解できますが、学術的な哲学という意味ではなかなか受け取りづらいと思われます。

 

とは言え、心に響くような文章が度々現れてくるので、読んでいて考えさせられる本であることは間違いないです。

 

例えば、

 

「不条理性は、それと認知されたその瞬間から、ひとつの熱情と化する、あらゆる情念のうちもっとも激しく心を引裂く情念と化する。だが、ひとははたして、熱情をいだきながら生きることができるか、心を高揚させると同時に、他方では心を炊き滅ぼすものであるという熱情の法則を、ひとははたして受け入れることができるのか、これを知ることがまさしく問題だ」

 

「不条理とは本質的に相容れぬことである。それは比較される要素のいずれにの側にもない。それらの対置から生まれるものなのだ」

 

「不条理な精神が論証の果てに求めうるものは倫理的規則ではなく、人間的な性をはっきりと映し出す様々な姿であり、またその息吹なのだ」

 

これらの主張が、カミュが訴える”不条理”の姿なのではないでしょうか。

 

不条理とは、個々の人間が培ってきた本能的精神の核に対して、価値観的否定の要素が影響することで、満たされない精神的状態に陥ることなのではないでしょうか。

 

要するに、自分が愛してやまない何か、自分が身に付けてきた姿勢……それが誰しもが同じであるとは限りません。

 

ですから、そのギャップにこそ”不条理”が存在しているのではないかと思います。

 

とは言え、そのギャップが生まれてしまうことは仕方ないことであります。

 

であれば、そのギャップに対してどのように振る舞っていけば良いのか、どのように対処していけば良いのかということを考えていくことが、生きづらさを感じる人間に必要な世渡りの術なのだと思います。

 

私自身、強く”不条理”を感じた時は、やはり学生から社会人へと変わった時でしょうか。

 

その時が、最もギャップを感じて苦しんだように思えます。

 

会社が目指している姿と、自分が目指している姿、そのマッチングを考慮して就職したはずですが、実際が会社が目指している姿というものはただの理想像であり、言っていることとやっていることがまったく違うということがありました。

 

そのせいと言うべきか、私の一年目の社会人生活は非常に精神的にツラいものとなりました。

 

考えてみれば、そのようなギャップを感じざるを得ない会社が存在していることも、そのような会社が蔓延っていることを許している社会というものも、それはどうも不自然に感じてしまいます。

 

本来は、そのようなギャップを感じないような社会が作られることが自然なのではないでしょうか。

 

仮に、あまりにも多くのギャップが存在している社会を正常だと言うのであれば、それは未熟な社会なのだと私は思います。

 

あるいは、成熟した社会に適応できない人間が増えたのか……。

 

別に社会学を研究しているわけではありませんので、学問に基づいた主張はできませんが、興味深い分野ではあります。


それでは、本日はここまでとなります。

また、次回の記事でお会いしましょう。

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)