読書貯金はじめました。

読書貯金とは私の造語です。本を要約・評価しつつ記事にして、読み返して智慧になるような記事を書いていきたいと思います。

「正義の喪失―反時代的考察/長谷川三千子」をAmazon読み放題サービスで読んでみました。

はじめまして。
KISOと申します。
本日は。長谷川三千子さんの「正義の喪失―反時代的考察」についてご紹介いたします。

 

Amazonの著者紹介によると、

 

長谷川/三千子
昭和21年、東京都生まれ。昭和44年、東京大学文学部哲学科卒業。昭和50年、同大学大学院博士課程修了。埼玉大学助教授を経て、現在、同大教授。専攻は哲学。平成9年度、和辻哲郎文化賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

 

と、紹介されています。

 

和辻哲郎文化賞を受賞されているということは、第三者的に哲学者として非常に高く評価されているということの証拠ですね。

 

哲学者の少ない日本で、日本で哲学が発展していくということは多くの人間の精神的な成長の貢献できるということでもありますから、とても喜ばしいことです。

 

ちなみに、和辻哲郎は「風土 人間学的考察」で有名な哲学者の方です。

 

ご興味のある方は、こちらも呼んでみると良いかもしれません。

風土?人間学的考察 (岩波文庫)

風土?人間学的考察 (岩波文庫)

 


ちなみに、長谷川三千子さんの「正義の喪失―反時代的考察」の評価は、Amazonでは次のようになっています。

 

2018/11/9現在★★★★☆(6レビュー)。

 

それでは、本書の内容に触れていきましょう。

 

こちらの内容としましては、

 

第一章が”正義の喪失”というテーマになっています。

 

そして、そのほかの章が正義というテーマからはずれない範囲で、違ったテーマを取り扱って議論が繰り広げられていきます。

 

また、これはいくつかの論文集のようなものとなっていまして、どの章から読んでも理解することが出来ると思います。

 

”正義の喪失”の各論としましては、”正義と戦争”について触れています。

 

「およそすべての戦争は『正義の戦争』である。自らの主張を『正義』として掲げ。その正義を実現するために戦ふ、という意味において、すべての戦争と呼びうる限りのものはすべて『正義の戦争』である」

 

と、一番最初に述べられています。

 

確かに、言っていることは至極当然のことでしょう。

 

皆が己の正当性を信じながら行動しているのですから、そこに疑いの余地を挟むこと事態がナンセンス。

 

己の行動を否定する時点で、そもそも行動するべきではないのでしょう。

 

ですが、それは戦争における正義の話です。

 

”正義の喪失”とは何なのでしょうか。

 

もう少し先の内容を読み解いていきましょう。

 

続いての各論は、”勝者の正義”です。

 

”正義の戦争”のその後の話ですね。


「ここから、ある必然的な帰結が生じる。すなはち、戦争という力と力のぶつかり合ひに勝つた者が『正義』を手に入れ、それに破れた者は、『正義』を失ふ、ということである」

 

要するに、勝てば官軍、負ければ賊軍というやつでしょう。

 

勝った者にこそ正義があるという暴力的な法則です。

 

弱肉強食という野蛮なルールが適応されるのは、いつの時代だって戦争です。

 

ですが、そこに大きな問題があるわけではありません。

 

「問題は、人々の掲げる正義が一致しないことにあるのではない。喰い違った『正義』と『正義』とがどうして避け難くぶつかりあひ、戦ひあつてしまふことになるのか?――そこが問題なのである」

 

と、言っています。

 

そして、

 

「『正義』とは、まづ何であるよりも『不正の処罰』といふことである。或る西洋のほう哲学者がいみじくも言ふ通り、『もし不正が存在しないなら、正義の観念も無意味なものとならざるをえない』すなはち、『なされてしまった不正は償はれなければならず、いま現に在る不正とはとりのぞかれなければならない』といふ、その脅迫観念を名付けて、彼らは『正義』と呼ぶのである」

 

とも言っています。

 

ああ、この考え方に基づけば、それはもう「正義」と「正義」がぶつかり合うという現象は避けられない現象でしょう。

 

人間のあらゆる”個性”を廃することが出来るのであれば、このような衝突というものが起きることはないのでしょうけども、今の社会では不可能に近いでしょう。

 

そして、人間にはそもそもの話として欲求というものがあります。

 

しかも、その欲求というものは、いついかなる時、誰しもが同じ欲求を抱けるものではありません。

 

であれば、その欲求の食い違いというものは必ず起きます。

 

しかし、良くも悪くも人間が自由な欲求を抱くために、経済は発展しますし、便利な世の中だって形成されるわけです。

 

であるから、この「正義」と「正義」のぶつかり合いというものが必ずしも「悪」ということでもありません。

 

もっとも、「正義」はスクラップ&ビルドで生産性のある概念であって、怠惰なことにこそ「悪」が存在しているという考え方に基づいているのですが……。

 

私個人としましては、この創造的で破壊的な行いを「正義」ということには些か倫理に反するようにも感じられます。

 

道徳や倫理に反することにこそ「悪」が存在して、鑑みないで道徳や倫理を守ることに「正義」があるようにも感じられます。

 

それでは、本日はここまでとなります。

 

また、次回の記事でお会いしましょう。

 

「人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス/フロイト(訳:中山元)」をAmazon読み放題サービスで読んでみました。

はじめまして。
KISOと申します。
本日は、フロイトの人「人はなぜ戦争をするのか」という本についてご紹介いたします。

はてなキーワードの紹介によると、

 

フロイト(Sigmund Freud,1856.5.6-1939)

ユダヤオーストリア人の精神分析家、精神科医。人間の無意識に注目し精神分析を創始した。無意識の発見は数多ある人類の発見の一つであるが*1、「実在」としてとりだせないために批判も多い。しかし、戦争や宗教を考えるに当たっては避けては通れない道である。フロイトの生い立ちから人生に数々の考えるべきヒントがある、と言う学者もまた少なくない。 ナチスの迫害によってロンドンに逃れそこで癌のため亡くなった。

 

と、紹介されています。

 

フロイトと言いますと倫理の授業でも取り扱うことのある、精神分析学の祖とも言える方ですね。

 

ですが、そのフロイトのことを詳しく知っている方は少ないのではないでしょうか。

 

それこそ、専門的に精神分析を研究している方でなければ分からない人物なのだと思います。

 

私自身、フロイトのことは詳しくなく、精神分析入門などの書籍を書店で見かけたことがあるくらいの程度です。

 

またこの本はAmazon上ではこのような評価となっております。

2018/10/3現在 ★★★★☆(15レビュー) 。

 

それでは、本書の内容に触れていきましょう。

 

ちなみに、本書はいくつかの論文が載っている形式となっておりまして、「人はなぜ戦争をするのか」はあくまでも掲載されている論文の一つということになります。

 

他には、

 

・戦争と死に関する時評

・爽とメランコリー

・心的な人格の解明

・不安と欲動の生

 

以上の4つの論文が他に掲載されております。

 

それでは、一番最初の「人はなぜ戦争をするのか」という論文に触れていきましょう。

 

フロイトはその中で載せる一番最初のテーマとして、「暴力の役割」ということについて触れています。

 

「人間のあいだで利害が対立したときに、決着をつけるのは原則として暴力なのです。動物たちはみんなそうしているのですし、人間も動物の一種なのです。ただし人間の世界では利害の対立だけではなく、意見の対立も発生します。いまではこの意見の対立は、きわめて抽象的な次元にまで及んでいるので、暴力に頼らずに解決する技術が求められているようになりました」

 

人間としての本能と言いますか、根源的な話になってきていますね。

 

しかし、意見の対立を解決するだけであるならば、それは相手を屈服させることはなかなか難しいものだと思われます。

 

なぜならば、人間には感情があります。

 

感情があるので、意見で言い負かされたとしても、ソレに対する逆恨みであったり、嫉妬心であったり、様々な感情が渦巻いて最終的には暴力に及ぶことも少なくはありません。

 

そして、その暴力の行き着く先は”敵を殺してしまう”ということになるでしょう。

 

しかし、理性の働きがその結論に行き着かないように次の考えを示しています。

 

「人間はやがて、敵を殺してしまうのではなく、怯えさせておいてから生命を助けて利用すればよいのではないかと考え始めたのでした。すると暴力を行使する目的が、相手を殺すことではなく、服従させることになったわけです」

 

なるほど、自分に害なす者を倒すではなく、利用しようという考えですね。

 

それこそ、理性のなせる技でしょう。

 

そして、暴力から権利への道へと進んでゆくわけです。

 

一方で、法の支配を不安定にする源泉というものが存在します。

 

「第一の源泉となるのは支配者側のもので、共同体のすべての成員が従うべきだとされた法の支配をやめて、暴力が支配する状態に戻そうとする試みです」

 

「第二の源泉となるのは抑圧された人々の側のものです。抑圧された人々は、法を修正して自分たちの力を強め、それを支配者に認めさせようと絶えず試みるのです」

 

「法を変えていく源泉がもう一つありました。共同体の成員が文化的な変化を経験した場合には、方が平和的に修正されることがあります」

 

以上が法の支配を不安定にする源泉とのことです。

 

なるほど、これらが取り巻く環境を変えていく源泉ということなんでしょう。

 

しかし、そのための方法というもの出てくることがなく、結果として変化しないことも多いでしょう。

 

あくまで源泉なだけで具体的にどうこうという話ではありません。

 

ですが、人間には欲動というものが存在します。

 

その抗い難い欲動のせいで、多かれ少なかれ変化へと進んでいくのが人間というものです。

 

フロイトに言わせれば、

 

「わたしたちは、人間の欲動には二種類のものしかないと考えています。一つは、生を統一し、保存しようとする欲動です。プラトンの『饗宴』ではこの欲動をエロスと呼んでいるので、わたしたちもこれをエロス的な欲動と呼びます。性的な現象についての一般的な考え方を敷衍して適用すれば、これを性的な欲動とよぶこともできるでしょう。もう一つの欲動は、破壊し、殺害しようとする欲動で、これを攻撃欲動や破壊欲動と総称しています」

 

とのことです。

 

それでは、どうしたら良いのか。

 

「人間の攻撃的な傾向を完全に消滅させることを目指すべきではないのです。この欲動を別の場所に向けて、戦争においてその表現をみいださないようにすれば良いのですから」

 

と、言っています。

 

しかし、具体的にどうしたら、その攻撃性を他に向けることが出来るのかということには論じられていません。

 

フロイトはあくまでも根源的なことについて述べています。

 

無責任のような気もしますが、もしかしたらフロイトはその方法というものを未来に生きる人に託したくてあえて記さなかったのかもしれません。

 

それでは、本日はここまでとなります。

また、次回の記事でお会いしましょう。

「境界性パーソナリティ障害/岡田尊司」を普通に読んでみました。

はじめまして。
KISOと申します。
本日は、岡田尊司さんの「境界性パーソナリティ障害」という本についてご紹介いたします。

Amazonの著者紹介によると、

 

岡田尊司(おかだ・たかし)
1960年、香川県生まれ。精神科医。医学博士。東京大学哲学科中退。京都大学医学部卒。同大学院高次脳科学講座神経生物学教室、脳病態生理学講座精神医学教室にて研究に従事。現在、京都医療少年院勤務。パーソナリティ障害、発達障害治療の最前線に立ち、臨床医として若者の心の危機に向かい合う。著書に『パーソナリティ障害』『「生きづらさ」を超える哲学』(PHP新書)、『悲しみの子どもたち(集英社新書)など多数。小説家・小笠原慧としても活動し、作品に、横溝賞を受賞した『DZ』(角川文庫)、『風の音が聞こえませんか』(角川書店)、『タロットの迷宮』(文藝春秋)など。

 
と、紹介されています。

医学博士でありながら小説家としても活動しているところを見ると、現代の加藤周一といったところでしょうか。

 

もっとも、加藤周一は血液学が専門なので精神科とはまた畑違いではあるのですが……。

 

まあ、専門は違うにしても医学畑の作家はけっこうな数がいるのではないでしょうか。

 

私個人としては芥川賞作家の南木佳士が好きですし、作家というくくりであればブラック・ジャックなどで有名な手塚治虫でしょうか。

 

いずれにしろ、医学畑の作家は数多く見られるように感じられます。

 

そして、岡田尊司さんもそのような作家の一人ということです。

 

ちなみに彼の書いたこの本はAmazon上ではこのような評価となっております

2018/11/1現在 ★★★★☆(62レビュー) 。

それでは、早速本書に対する所感を述べていきたいと思います。

一言で言えば、この本はメンヘラについて述べられている本です。

 

メンヘラってどんな状態なのか。

 

メンヘラって何が原因でなるのか。

 

それは先天的なことが原因なのか、後天的なことが原因なのか……等などが述べられています。

 

そして、メンヘラを問題視していながらも、必ずしも悪くは言っていないところが本書の特徴となりますでしょうか。

 

ちなみに、メンヘラとは、ニコニコ大百科から意味合いを引用しますと次のように説明されています。

 

★概要
語源は2ちゃんねるの「メンタルヘルス板」より由来する。メンタルヘルス板とは「心の健康」について取り扱う板。

2ちゃんねらーの間で「メンタルヘルス板にいるような人間」をメンヘラーと略されるようになり、それがメンヘラになった。主に心に病気を抱えた人について使われる言葉として扱われている。

差別的な意味を含む場合もあるため扱いには注意しよう。

 

ヤンデレとの比較
ここ最近では、(ネットスラングとして)ヤンデレと比較され混同されることが多くなっているメンヘラ。現在境界が曖昧な両者の違いを比較した場合、相手への依存の仕方と愛情の向き方に差異があるという意見が多い。

 

◆メンヘラ
誰かに愛情を向けてもらいたい、そんな自分が何より愛おしい
誰かに気を向いてもらうためになんでもする「かまってちゃん」行為がベースにある
自分という存在がそっぽを向かれるのを何より恐れるが、自分以外の他人がどうなっても知ったことなし
一言で言えば、「愛してくれないならここで死んでやる!」

 

ヤンデレ
特定の誰かを愛している、他は(時に自分自身さえ)どうでもいい
愛している特定の人のためになんでもする「護って、尽くす」行為がベースにある
愛している人にそっぽを向かれるのを何より恐れるが、それ以外の他人からどう思われようが知ったことなし
一言で言えば、「愛してくれないなら邪魔なあいつ殺す!」

 

確かに、考えてみたらメンヘラもヤンデレも明確な線引きがされているわけではないように思えますね。

 

ですが、問題となる点は、以上のような振る舞いは正常な精神状態ではないということです。

 

そして、それは”境界性パーソナリティ障害”と呼ばれる一種の障害ということなのでしょう。

 

簡単に言えば、精神の状態異常ですね。

 

最初に本書では、”境界性パーソナリティ障害”はどのような場面で問題が起きる症状なのか、また具体的な精神状態に関しても述べられています。

 

境界性パーソナリティ障害は、その根本的な問題が愛情や感への強い飢餓状態に根ざしているため、もっとも親密で、もっとも相手との距離が縮まる連らいという状況において、激しく問題を露呈しやすい」

 

「自分と他社との境目が曖昧で、充分に区別できていないということである。そのため自分の視点と他社の視点を混同していまいやすい。自分が好きなものは、相手も気に入るに違いない、逆に自分が嫌いなものは、相手も嫌うはずだと思う。自分と相手が別の存在で、自分の感じ方と相手の感じ方は別々のものだと頭では理解していても、いつのまにか混同し、そのことにも本人は気づかないのである」

 

なるほど、他社に対する共感性が欠如しているという点ではサイコパスにも似通った特徴が見られますね。

 

サイコパスは共感性が欠如しているが、相手の心情を理解することができる。

 

そのため、相手にとって魅力的に見えるように振る舞うことが出来る。

 

自分に対するメリットがある場合に限り……。

 

しかし、サイコパスと決定的に違う点としましては、相手の心情を理解することが出来ないという点でしょうか。

 

あくまでも、自分の感情や気持ちありきで、”自分が感じたことなのだから、相手も同じように感じているに違いない”という決めつけを無意識のうちに行っていまうというところに、境界性パーソナリティ障害の特徴がみられるということなのではないでしょうか。

 

そして、結果として世間一般の常識が通用しないという問題が生じてくる。

 

ちなみにサイコパスについて論じている記事は次になりますので、ご興味がありましたら合わせてご覧ください。

books-news.hatenablog.com

 

ちなみに、もっと具体的な内容に踏み込んでいきますと、境界性パーソナリティ障害と一口に言ってもベースにある性格や素質により症状には違いが現れるそうです。

 

それでは、どのような違うタイプがあるのか次に挙げてみます。

 

①強迫性の強いタイプ――妥協できない優等生。

⇒完璧を求めるあまり、完璧に物事をこなせないと自分に嫌悪感や罪悪感を抱いてしまう。

 

②依存性が強いタイプ――健診と背信を併せ持つ。

⇒いつも誰かを頼らずにはいられず、その結果として人に尽くしすぎて、いつのまtにか利用されてしまうタイプ。

 

③失調型の傾向が強いタイプ――ガラス細工のように繊細である。

⇒人と接することに過度の緊張や不安を感じるため、気疲れしやすい。

 

④回避性の強いタイプ――傷つくことに敏感すぎる。

⇒失敗や恥をかくことに非常に敏感で、責任ある状況を避けようとする。

 

⑤自己愛性が強いタイプ――過剰な自身と劣等感を抱える。

⇒傲慢で自己特別視が強く、非常に不安定で自己破壊的な重なることで、強い依存性と攻撃性を併せ持つ。

 

⑥演技性が強いタイプ――性と外見に異常にこだわる

⇒内面的な空虚感や寂しさを、注目と関心を得ることで代償しようとする。特に、過度に性的に振る舞ったり、男性的に振る舞ったり、女性的に振る舞ったりする。

 

⑦反社会性が強いタイプ――危険なスリルを求める。

⇒危険に見をさらしてスリルを味わうことが、大きな快感である。

 

⑧妄想性が強いタイプ――愛する人も信じられない。

⇒人が信じられず、裏切られているとか悪意を持たれていると邪推する。DVやストーカー行為に及ぶことがある。

 

⑨未分化型パーソナリティのタイプ――低年齢のケースに多い。

⇒快・不快という瞬間的な感情に支配されやすく、非常に衝動的である。

 

発達障害がベースにあるタイプ――症状が複雑すぎる。

⇒発達面の問題によって、精神的な不安定が二次障害として生じる。

 

けっこう多くのタイプを列挙しましたが、正直なところこれらの特徴は決して”境界性パーソナリティ障害”だからこそ持っている特徴ではないように感じられます。

 

多かれ少なかれ人間にはただいま挙げたような特徴は備わっていると思います。

 

ただし、これらが一般的な水準よりも極端に偏っている場合に”境界性パーソナリティ障害”と診断されてしまうようになってしまうのでしょう。

 

しかし、これらは決して改善できないという問題でもないと私は思うのです。

 

これらの症状はあくまでも、”アイデンティティを獲得するまでの過程”にすぎないのではないでしょうか。

 

北大路魯山人も「個性」という著書で「自分で失敗を重ねてたどりつくところは、型にはまってならったと同じ場所にたどりつくものだ。そのたどりつくところのものはなにか。正しさだ」と言っています。

個性

個性

 

 

要するに、失敗を繰り返しながらたどり着いた先に本物の個性があり、それは貴方にとっての正しさだと言いたいのだと思います。

 

私個人的には、この”境界性パーソナリティ障害”という症状も、あくまでも普通よりもちょっとだけ精神的な不安定具合が大きいだけのような気がします。

 

ですから、自分で”境界性パーソナリティ障害”に見られるような症状が出たとしても、それを自ら受け止めてそれを糧にしていくことが一番大切なのではないでしょうか。

 

難しい話ですね。


それでは、本日はここまでとなります。

また、次回の記事でお会いしましょう。

境界性パーソナリティ障害 (幻冬舎新書)

境界性パーソナリティ障害 (幻冬舎新書)

 

「サイコパス/中野信子」を普通に読んでみました。

はじめまして。
KISOと申します。
本日は、中野信子さんの「サイコパス」という本についてご紹介いたします。

Amazonの著者紹介によると、

 

中野/信子
脳科学者。東日本国際大学特任教授、横浜市立大学客員准教授。1975年生まれ。東京大学工学部卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


と、紹介されています。

 

近年ではメディアの露出も多く、「ホンマでっか!?TV」や「ワイドスクランブル」にもご出演されていますね。

 

個人的に思うところとしましては、彼女は脳科学者という立ち位置であり難解な分野の研究に携わりながらも、一般大衆向けに内容を噛み砕いてくれるところがありがたいですね。

 

この「サイコパス」という本に関しましても、題材としては抽象的に小難しいものにも関わらずわかりやすく述べてくれています。


またはAmazon上ではこのような評価となっております。

2018/10/31現在 ★★★☆☆(148レビュー。実際は★3.5) 。

 

ちなみに、YouTubeでも書籍の紹介を見ることが出来ますので、参考までにリンクを貼っておきます。

 

youtu.be



それでは、早速本書に対する所感を述べていきたいと思います。

大まかな流れとしまして、本書では脳科学の知見からサイコパスについて述べていき、それから世間を悪い意味で賑やかした犯罪者の例を持ち出し、勝ち組サイコパスと負け組サイコパスの分類、そして人類の進化にまで語られています。

 

まず最初に、述べられている重要な箇所としては、

 

「脳内の器質のうち、他社に対する共感性や『痛み』を認識する部分の働きが、一般人とサイコパスとされる人々では大きく違うことが明らかになってきました(中略)サイコパスは、他人がどうなろうと、その相手をおもいやるということはありません。論理的な思考や計算はできますが、他社への共感性や思いやり、恥の意識、罪の意識がすっぽり欠落しているのです」

 

という箇所になるでしょうか。

 

世間一般でイメージされるようなサイコパスそのまんまですね。

 

以前では聞き馴染みの無い言葉ではありましたが、認知度が上がってきてからはこのようなイメージを抱く方が多いのではないでしょうか。

 

ちなみに、余談にはなりますが、サイコパスを題材としてる作品としましては、「悪の教典貴志祐介」の主人公がまさにサイコパスです。

 

小説も漫画もありますので、お時間の在る方はこちらもご覧ください。

 

また、機会の在るときにでもご紹介したいと思います。

 

それでは、話を戻します。

 

サイコパスの次なる特徴としましては、次のように述べられています。

 

サイコパスは第一印象がとても良いのです。礼儀正しく、タレント性があり、人によっては無邪気にすら見えます。簡単に相手の信頼を得ることができるのが、彼らの特徴なのです」

 

サイコパスは、相手の目つきや表情からその人が置かれている状況を読み取る才能が際立っているのです」

 

なるほど、ということは相手の立場に立って考えることが出来ない精神性を持っているとしても、「どうしたら相手に自分が良く見えるか」ということを計算し尽くして振る舞うことができるため、共感性などが欠落しているにも関わらず、第三者的に見れば共感性があるように見えるということにもなるのでしょうか。

 

これだけであれば、実際はそれほどの問題も無いように思えます。

 

むしろ、相手に自分のことがよく見えるように振る舞えているのですから、理性的に良い精神性なのではないでしょうか。

 

しかし、サイコパスと呼ばれる人種が世間一般で非難されることには、必ず理由があるはずです。

 

次はその部分に触れていきましょう。

 

ここでは、サイコパス反社会的行動をとってしまう4つの仮説が立てられています。

 

①欠如仮説(低い恐怖感情仮説)

行動のブレーキというものが存在しないということです。

 

普通であれば、何か傷害事件でも起こそうものならば「捕まったら大変なことになる」という想像力が働くものですが、サイコパスの場合はそのような不安を感じることがありません。

 

そのため、行動に対する抑止力が極めて弱いために反社会的行動を取ってしまうという仮説です。

 

②注意欠陥仮説(反応調整仮説)

注意力を目先にあるタスクだけに向けるため、関係ないことが視界から外れてしまうということです。

 

サイコパスは集中力が極めて高く、自分の関心のあること以外のことをそもそも考えられないという仮説です。

 

③性急な生活史戦略仮説

自身の子孫を残すことを最優先としているために、騙してでも異性を魅了したらいいと考えたり、複数の異性を交友すること目的としているということです。

 

要は、一般的な道徳や倫理を理解することが出来ないために不貞に走ってしまうという仮説でしょうか。

 

④共感性の欠如説

これはそのまんまですね。

 

中野信子さんは脳科学の分野から述べてくれていますが、そこは専門的でなかなか理解が難しい部分なので、結論から言いますと、サイコパスは道徳によって判断することはありません。『合理的なのだから、それが正しい』と考えます。(中略)冷たい計算はあっても、熱い共感はないのです、道徳には、『熱い共感』が必要です」とのことです。

 

もう、この最後の④がサイコパスとはどのようなものなのかという問に対する解答のようなものですね。

 

正直、ここで思うことの一つしましては、これら4つの仮説を事実として兼ね備えていたら、本物のサイコパスなのでしょうけど……ちょっと心当たりのある職業があります。

 

営業マンです。

 

しかも、営業だけでのし上がってきた職人のような生粋の営業マンです。

 

それが、この特徴に当たると思います。

 

というもの、僕が以前働いていた職場のトップトップ営業マンは、皆このような特徴を兼ねていたように思います……。

 

やはり、トップ営業マンはサイコパス……。

 

まあ、それはそれとして、実際問題として社会で働いている人間の中には、ごく普通にサイコパスが馴染んでいるということです。

 

ですから、私個人としては何が出来るということでもありませんが、以上のような特徴を持つような人間との関わり方を自分で考えて自己防衛することぐらいはできるのではないかと思います。

 

……と、もう少し語りたいところではありますが、文字数的にちょっと多くなっていまいましたので、中途半端ですがこのあたりで区切りたいと思います。


それでは、本日はここまでとなります。

また、次回の記事でお会いしましょう。

サイコパス (文春新書)

サイコパス (文春新書)

 

 

「善の研究/西田幾多郎」を青空文庫で読んでみました。

はじめまして。
KISOと申します。
本日は、西田幾多郎の「善の研究」という本についてご紹介いたします。

Amazonの著者紹介では短いので、コトバンクでの紹介を引用させていただきます。

 

西田幾多郎【にしだきたろう】日本の代表的哲学者。石川県出身。四高中退後,東大選科に入り,鎌倉の円覚寺などで参禅。1899年山口高校講師を経て四高教授となり,熱心に打座・参禅して,〈純粋経験〉〈直接経験〉および〈絶対矛盾的自己同一〉など,のちの彼の根本思想となるものについて思索を深めた。1909年学習院教授,1910年招かれて京大助教授となり,1911年《善の研究》を発表し,1913年京大教授となった。東洋的精神性の自覚を基礎に,西洋哲学を積極的に摂取し,東西思想の内面的統一を求めて,独特の〈西田哲学〉を樹立し,田辺元らと京都学派(西田学派)を形成した。1928年退官後も活発な著作活動を続け,大正・昭和時代の哲学思想に大きな影響を与えた。1940年文化勲章。著書《自覚に於ける直観と反省》《働くものから見るものへ》《哲学の根本問題》。全集18巻がある。

 
と、紹介されています。

 

日本における代表的な哲学者ですね。

 

一方で作家的な功績も多数見られるようです。


彼の書いたこの本はAmazon上ではこのような評価となっております。

2018/10/28現在 ★★★★☆(43レビュー) 。

それでは、早速本書に対する所感を述べていきたいと思います……と、言いたいところですが、

正直なところ「善の研究」に関しましては非常に理解することが難しい本であると同時に、内容がとても濃いために一度の記事で完全に話しきれるとは思っておりません。

 

 

機会があれば、解説本の紹介もしたいところです。

 

それでは、気を取り直して内容に触れていきましょう。

 

まず最初に、彼は本書の前半部分において、”純粋経験”というテーマで論証を推し進めております。

 

純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活溌なる状態である」

 

「意志の本質は未来に対する欲求の状態にあるのではなく、現実における現在の活動にあるのである」

 

純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者のいわゆる単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである」

 

と、述べています。

 

ふむ、ここの時点では何となく”純粋経験”とはどのようなことを指しているのか、かなり大雑把に分かる状態ですね。

 

重要な箇所としては、”かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである”という箇所ででしょうか。

 

しかし、これが何にどのように影響してくる概念なのかということがさっぱり掴めません。

 

では、もう少し先の文章を読み解いてみましょう。

 

次に、”思惟”というテーマで論じられています。

 

ちなみに、思惟とは辞書的な意味合いで説明しますと、

 

しゆい【思惟】 ( 名 ) スル ① 〘仏〙 思いはからうこと。考えること。分別すること。思考。しい。 ② 「しい(思惟)」に同じ。 「さらに出直ほして-して見て/浮雲 四迷」

 

と、コトバンクで説明されています。

 

しかし、西田幾多郎によると、

 

「思惟というのは心理学から見れば、表象間の関係を定めこれを統一する作用である。そのもっとも単一なる形は判断であって、即ち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである。しかし、我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、かえって或一つの全き表象を分析するのである」

 

と、述べています。

 

なるほど、”純粋経験”で述べられていた概念と共通する箇所が見えてきましたね。

 

”即ち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである”という文章からは、非常に似通った概念を感じられます。

 

しかし、まだまだ謎の部分が多いです。

 

一見すると、複数に渡って存在している要素の統一にこそ善性を見いだせると言ってるようにも感じられます。

 

もう少し、先のテーマに触れてみましょう。

 

次は”意志”というテーマで話が進められています。

 

「具体的精神現象は必ず両方面を具えている、知識と意志とは同一現象をその著しき方面に由りて区別したのにすぎぬのである、つまり知覚は一種の衝動的意志であり、意志は一種の想起である」

 

「知と意との区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一せる状態を失った場合に生ずるのである。思想というのも我々が客観的事実に対する一種の要求である、いわゆる真理とは事実に合うた実現し得べき思想ということであろう」

 

”いわゆる真理とは事実に合うた実現し得べき思想ということであろう”という箇所がポイントになるのでしょうけども、まだまだわかりづらいですね。

 

恐らく、知覚と意志の分別について述べつつ物事の道理を見抜くポイントについて述べられているように感じられます。

 

その上で、これから”善”とは何かということについて述べられていきます。

 

「善は如何なる者であるか、何故に善をなさねばならぬのかの問題を人性より説明せねばならぬようになってくる。かくのごとき倫理学他律的倫理学という。これには三種あって、一つは理性を本とする者で合理説または主知説といい、ひとつは苦楽の感情を本とする者であって、また一つは意志の活動を本とする者で活動説という」

 

「善とは一言にていえば人格の実現である。これを内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極みは自他相忘れ、主客相没するというところに到らねばならぬ」

 

ここでまた難しい言葉が出てきましたね。

 

他律的倫理学”だなんて普通の人は聞いたことがないような言葉なのではないでしょうか。

 

しかし、基本となる考え方は変わってはいません。

 

あくまでも統一された要素にこそ善の性質が存在しています。

 

ここでは善性の価値観について述べられており、まず3パターンの倫理性について述べた後に、先のパターンのような客観的善が存在してることを考慮した上で、自己の善と統一を測ることで独特的人格の形成にこそ”善”が宿っていると言っているように感じられます。

 

なるほど、何が”善”なのかようやく見えてきましたね。

 

著書の最後では、”神と世界”というテーマで”善”という概念に対する締めくくりをしてます。

 

「他の人格を認めるということは即ち自己の人格を認めることである、しかしてかく各々が相互に人格を認めたる関係は即ち愛であって、一方より見れば両人格の合一である。愛において二つの人格が互に尊重し相独立しながら、しかも合一して一人格を形成するのである。かく考えれば神は無限の愛なるが故に、凡ての人格を抱合するとともに凡ての人格の独立を認めるということができる」

 

何となくですが、本当になんとなく”善”というものの在り方が見えましたね。

 

まとめると、

 

善とは要素を統一することのできる価値観であり、主観客観の垣根を超えて善性を謳えることにこそ善が生まれ、人格が実現されうるということでしょう。

 

また、凡ての人格の独立を認めることが出来なければ、自己の人格の実現が成り立たないということでしょう。

 

そして、他律を認められることが善的な愛ということだと、言っているように私は捉えました。

 

まあ、正直難しい概念ですので、私のこの解釈が正しいのかと問われれば怪しいところではありますが、素直に言葉のまま受け取った解釈となります。

 

いずれ解説本でも読んでみるのが良いかもしれませんね。

 

それでは、本日はここまでとなります。

また、次回の記事でお会いしましょう。

善の研究 ─まんがで読破─

善の研究 ─まんがで読破─

 
善の研究 (講談社学術文庫)

善の研究 (講談社学術文庫)

 
善の研究
 
善の研究 (岩波文庫)

善の研究 (岩波文庫)